咲いて、実らず〜探偵、音村百合奈シリーズ〜 ミステリー

衆議院議員・御堂孝宏に届いた、七年前の出来事を問いかける脅迫状。調査を始めた探偵・音村百合奈は、隠蔽された死亡事故と、不可解な自殺の真相に迫っていく。やがて明らかになる、権力者の罪と複雑に絡み合う三つの初恋。愛する人を失った悲しみは、やがて復讐という悲劇を生み出す。誰もが幸せを願っていたはずなのに、なぜ運命は狂ってしまったのか。咲いても実らなかった恋を描く、切ない愛憎ミステリー。
脚本家未満. 20 0 0 10/11
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第一稿

探偵、音村百合奈シリーズ「咲いて、実らず」


拍手が鳴りやまなかった。

都内の高級ホテル。その三階に設けられた大宴会場には、政財界の関係者を中心に二百人を超える招待客 ...続きを読む
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探偵、音村百合奈シリーズ「咲いて、実らず」


拍手が鳴りやまなかった。

都内の高級ホテル。その三階に設けられた大宴会場には、政財界の関係者を中心に二百人を超える招待客が集まっていた。

壇上に立つ男は、御堂孝宏。四十二歳。

先日の衆議院議員総選挙で初当選を果たした、新人政治家である。

「このたびは、多くの皆様のお力添えをいただき、国政の場に立つ機会を頂戴いたしました。心より感謝申し上げます」

孝宏は深々と頭を下げた。

再び大きな拍手が起こる。

その様子を会場の最前列から見守る老人がいた。

御堂鄘造。七十三歳。

元国務大臣にして、長年にわたり政界の要職を歴任してきた実力者である。

孝宏の父親だった。

「立派になられましたな、御堂先生」

隣に座る財界人が声をかける。

「まだまだですよ。あれは人が良すぎる。政治の世界では、それだけでは生き残れません」

鄘造は穏やかに笑った。

しかし、その視線は壇上の息子から一度も離れなかった。

まるで、自分が育てた作品の出来栄えを確かめるように。

壇上の孝宏は、用意された原稿を読み進めていた。

時折、客席に目を向ける。

その視線が、一人の女性のところで止まった。

村山恵。四十二歳。

孝宏の秘書を五年間務め、現在は婚約者でもある女性だった。

落ち着いた紺色のドレスに身を包んだ恵は、孝宏と目が合うと小さく微笑んだ。

孝宏も安心したように笑みを返す。

恵は誰よりも孝宏の仕事を理解していた。

政策資料の作成、支援者への対応、日程調整。どれを任せても抜かりがない。

孝宏にとって、もはや彼女のいない生活など考えられなかった。

そして、彼は知らなかった。

目の前で微笑む婚約者が、二十年以上前、自分と同じ教室で過ごしていた少女だったことを。

もっとも、その事実を知る者は、会場には一人もいなかった。

恵自身を除いて。

⸻

午後七時四十分。

祝賀会は盛況のうちに進んでいた。

孝宏が来賓との歓談を終え、控室へ戻ったときだった。

「先生、こちらを」

恵が白い封筒を差し出した。

「何だい?」

「受付に預けられていたそうです。差出人のお名前がありません」

孝宏は封筒を受け取った。

宛名には、ただ一言。

『御堂孝宏様』

差出人の住所も名前もない。

不審に思いながら封を切ると、中には一枚の便箋が入っていた。

そこに書かれていた文章を目にした瞬間、孝宏の表情が変わった。

『七年前のことを、覚えていますか。』

その下には、さらに二行。

『あなたが忘れても、私は忘れません。』

『次は、あなたの番です。』

「……何だ、これは」

孝宏の手が震え始めた。

「先生?」

恵が顔をのぞき込む。

「い、いや……何でもない」

孝宏は慌てて便箋を折り畳んだ。

しかし、その様子を見逃す恵ではなかった。

「何でもないようには見えませんが」

「悪質ないたずらだよ。気にすることはない」

「拝見してもよろしいですか」

孝宏はしばらく迷った末、便箋を差し出した。

恵は文章を読み終えると、眉をひそめた。

「脅迫状ですね」

「大げさだよ」

「『次はあなたの番』と書かれています。警察に相談すべきです」

「いや、それは……」

孝宏は言葉を濁した。

そのとき、控室の扉が開いた。

「何を騒いでいる」

入ってきたのは鄘造だった。

恵が事情を説明すると、鄘造は便箋を受け取り、黙って目を通した。

数秒後、老人は小さく鼻を鳴らした。

「くだらん」

「しかし、お父さん……」

「政治家になれば、この程度の嫌がらせはいくらでもある」

「でも、七年前と書いてある」

その言葉に、鄘造の視線が鋭くなった。

「それがどうした」

「いや……」

「何か心当たりでもあるのか」

孝宏は答えなかった。

鄘造は便箋を机に置いた。

「警察には知らせるな。選挙が終わったばかりだ。余計な騒ぎは必要ない」

「ですが、御堂先生」

恵が口を挟んだ。

「万が一のことがあってからでは遅いと思います」

「村山君。君は秘書として、孝宏の立場を第一に考えなさい」

「もちろん、そのつもりです」

恵は静かに答えた。

鄘造はそれ以上何も言わず、控室を出ていった。

扉が閉まると、孝宏は深く息を吐いた。

「すまないね、恵さん。父は昔からああいう人なんだ」

「存じています」

「君には苦労ばかりかけている」

「そんなことありません」

恵は微笑んだ。

「私は、先生のお役に立ちたいだけですから」

その声は、いつもと変わらず穏やかだった。

⸻

翌日の午後。

音村探偵事務所。

「……で、何で私がそんなことを調べなきゃいけないわけ?」

音村百合奈は、机に頬杖をつきながら言った。

向かいに座る女性は、昨夜の祝賀会で孝宏の隣にいた村山恵だった。

「もちろん、正式に依頼料はお支払いします」

「そういう問題じゃないの。政治家への脅迫なら警察に行けばいいでしょう」

「それができない事情があるんです」

「事情?」

「婚約者の父親が、警察への相談を認めてくれません」

百合奈は眉を上げた。

「へえ。ずいぶん偉いお父様なのね」

「御堂鄘造です」

その名前を聞いても、百合奈の表情は変わらなかった。

「知らない」

恵は少し驚いたようだった。

「元国務大臣なのですが」

「政治家の名前なんて興味ないもの」

百合奈は机の上に置かれた封筒へ視線を移した。

「それで、これが問題の手紙?」

「はい」

「原本?」

「コピーです。原本は御堂家で保管しています」

百合奈は便箋のコピーを取り出した。

短い文章だった。

『七年前のことを、覚えていますか。』

『あなたが忘れても、私は忘れません。』

『次は、あなたの番です。』

百合奈はしばらく黙っていた。

「七年前ね」

「何か分かりますか」

「まだ何も。ただ、気になることはある」

「何でしょう」

「この手紙、どうして七年前って書いたのかしら」

「……どういう意味ですか」

「相手に心当たりがあるなら、もっと具体的に書けばいい。逆に心当たりがないなら、七年前なんて言われても分からない」

百合奈は便箋を机に戻した。

「つまり、送り主は御堂孝宏が七年前の出来事を覚えていると確信している」

恵は小さくうなずいた。

「先生も、手紙を読んだときに動揺していました」

「でしょうね」

百合奈は椅子の背もたれに体を預けた。

「ところで、村山さん」

「はい」

「あなたは婚約者なのよね」

「そうです」

「五年間も秘書をしていて、七年前のことは何も知らないの?」

「私が秘書になったのは五年前ですから」

「それは答えになっていないわ」

恵の表情がわずかに固まった。

百合奈は続けた。

「五年間も一緒に働いて、今では結婚する相手なんでしょう。過去の話くらい聞いたことがあるんじゃない?」

「……昔のことを、あまり話したがらない方なんです」

「ふうん」

百合奈はそれ以上追及しなかった。

代わりに、机の引き出しから小さなタロットカードの束を取り出した。

恵は不思議そうに見つめた。

「占い、ですか?」

「違うわ。考えを整理するための道具」

百合奈は一枚のカードを表向きに置いた。

描かれていたのは、塔が崩れ落ちる絵だった。

「塔。突然の崩壊、隠されていたものが壊れること」

「……何か意味があるんでしょうか」

「さあ。カードが事件を解決してくれるわけじゃないもの」

百合奈はカードを片づけた。

「依頼は受ける。ただし、私が調べるのは脅迫状の差出人だけとは限らない」

「構いません」

恵は即答した。

あまりにも迷いのない返事だった。

百合奈は一瞬だけ、彼女の顔を見た。

「そう。じゃあ、まずは御堂孝宏に会わせて」

「手配します」

恵は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。

「よろしくお願いいたします。音村先生」

事務所の扉が閉まる。

百合奈はしばらくその扉を見つめていた。

「……変な人」

誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。

婚約者が脅迫されているというのに、あの女性は一度も取り乱さなかった。

それどころか、百合奈が依頼を引き受けた瞬間、わずかに安堵したように見えた。

まるで、最初からそうなることを期待していたかのように。

⸻

その日の夕方。

百合奈は御堂孝宏について調べ始めた。

経歴は華々しかった。

名門大学を卒業後、民間企業に勤務。その後、父親の政治活動を支え、今回の選挙で初当選。

結婚歴は一度。

七年前に妻と死別していた。

「……妻?」

百合奈は画面をスクロールした。

亡くなった妻の名前は、沖田侑子。

享年三十五歳。

かつて孝宏の秘書を務めていた女性だった。

死因は自殺。

当時の記事には、仕事上の悩みを抱えていた可能性があると記されていた。

百合奈は画面を見つめた。

「七年前……」

脅迫状に書かれていた年月と一致していた。

偶然かもしれない。

しかし、調べない理由にはならなかった。

さらに記事を読み進める。

侑子の葬儀では、孝宏が憔悴しきった様子で参列者に頭を下げていたという。

その記事の末尾に、短い記述があった。

『なお、御堂氏は妻の死について、当面の間、取材への対応を控えるとしている。』

百合奈は椅子から立ち上がった。

「……なるほどね」

窓の外では、夕日が街を赤く染めていた。

机の上には、あの脅迫状のコピーが置かれている。

『七年前のことを、覚えていますか。』

百合奈はもう一度、その文章に目を落とした。

そして、静かにつぶやいた。

「御堂孝宏。あなたは七年前に、何を忘れたことにしたのかしら」

事件は、まだ始まったばかりだった。


翌朝、音村百合奈は都内の閑静な住宅街を歩いていた。

向かっているのは、御堂孝宏が七年前まで暮らしていた邸宅だった。

現在は別の場所に住んでいるものの、建物は御堂家の所有物として残されているという。

「……大きい家」

百合奈は白い外壁に囲まれた邸宅を見上げた。

門の前には村山恵が立っていた。

「音村先生。お待ちしておりました」

「御堂さんは?」

「中でお待ちです」

恵に案内され、百合奈は応接室へ通された。

室内には高価そうな調度品が並び、壁には御堂鄘造と歴代の政治家が並んだ写真が飾られていた。

その中に、一枚だけ雰囲気の異なる写真があった。

若い孝宏と、一人の女性が並んでいる。

女性は柔らかな笑顔を浮かべていた。

「この人が、沖田侑子さん?」

百合奈が尋ねる。

恵は写真を見つめた。

「……はい。孝宏先生の、亡くなられた奥様です」

「幸せそうね」

「そうですね」

恵の返事は短かった。

そのとき、廊下から足音が聞こえた。

「お待たせしました」

現れたのは御堂孝宏だった。

テレビで見るよりも幾分痩せており、目の下には薄い隈ができていた。

「音村百合奈さんですね。恵さんからお話は伺っています」

「どうも」

百合奈は軽く頭を下げた。

「早速ですけど、七年前に何があったんですか?」

孝宏の足が止まった。

「……え?」

「脅迫状のことです。七年前と書かれていましたよね」

「それは……」

孝宏は恵を見た。

恵は何も言わなかった。

「何か心当たりがあるんでしょう?」

「妻が……亡くなった年です」

「沖田侑子さんですね」

「ご存じでしたか」

「調べましたから」

孝宏はゆっくりと椅子に腰を下ろした。

「侑子は、優しい人でした」

その声には、どこか懐かしさが混じっていた。

「僕にはもったいないくらいの女性でした。いつも笑っていて、誰に対しても分け隔てなく接する人で……」

「それなのに、自殺した?」

孝宏は唇を噛んだ。

「……はい」

「理由は?」

「分かりません」

「夫なのに?」

「僕だって、知りたかったんです!」

突然、孝宏が声を荒らげた。

恵が驚いたように顔を上げる。

孝宏はすぐに俯いた。

「……すみません」

百合奈は表情を変えなかった。

「最後に会ったのは、いつですか」

「亡くなる前日の夜です」

「何か話しました?」

「……覚えていません」

「七年前だから?」

「そうです」

百合奈は少し考えた。

「奥さんが亡くなった前日のことなのに、何も覚えていないんですね」

孝宏は答えなかった。

部屋に沈黙が落ちた。

その沈黙を破ったのは恵だった。

「先生。そろそろ次のご予定が」

「ああ……そうだったね」

孝宏は立ち上がった。

「申し訳ありません。今日はこれで」

「最後に一つだけ」

百合奈が呼び止める。

「侑子さんが亡くなったとき、あなたはどこにいました?」

孝宏の顔から血の気が引いた。

「……父のところです」

「お父さんの?」

「はい」

「何をしていたんですか」

「仕事の相談を……」

「夜中に?」

「……ええ」

百合奈は小さく頷いた。

「分かりました。ありがとうございます」

孝宏は逃げるように応接室を出ていった。

その背中を見送りながら、百合奈はつぶやいた。

「嘘が下手な人ね」

恵は何も言わなかった。

⸻

邸宅を出た百合奈は、その足で七年前の事件について調べ始めた。

当時の新聞記事、週刊誌、インターネット上に残された報道。

沖田侑子の死は、元国務大臣の息子の妻が自殺したということで、一定の注目を集めていた。

しかし、記事の内容はどれも似通っていた。

仕事上の悩み。

精神的な疲労。

そして、遺書の存在。

「……遺書ね」

百合奈は記事を読み進めた。

侑子は自宅で死亡しているところを発見され、現場には本人が書いたとみられる遺書が残されていた。

その内容は公表されていない。

一方、当時の知人への取材では、侑子について意外な証言が掲載されていた。

『悩みがあるようには見えなかった』

『亡くなる数日前にも、友人と楽しそうに食事をしていた』

『明るくて、周囲を気遣う人だった』

百合奈は画面を止めた。

「自殺する人が必ず暗い顔をしているわけじゃないけど……」

記事には、もう一つ気になる記述があった。

侑子は亡くなる直前まで、夫の政治活動に関する資料を整理していたという。

百合奈はその部分を何度も読み返した。

「仕事を辞めるつもりだったのかしら」

そのとき、携帯電話が鳴った。

相手は村山恵だった。

「音村先生。先ほどはありがとうございました」

「何か用?」

「先生が帰られたあと、孝宏先生が少し取り乱されまして」

「でしょうね」

「何か、気になることがあったのでしょうか」

「いろいろね」

「……そうですか」

百合奈は椅子にもたれかかった。

「村山さん。侑子さんのこと、どれくらい知っているの?」

電話の向こうが静かになった。

「……前任の秘書だったと伺っています」

「それだけ?」

「はい」

「あなたが秘書になったのは、侑子さんが亡くなって二年後よね」

「そうです」

「どうして御堂さんの秘書になろうと思ったの?」

「知人の紹介です」

「その知人は?」

「申し訳ありません。個人的なことですので」

百合奈は小さく笑った。

「そう。じゃあ、また何かあったら連絡して」

電話を切った。

しばらく携帯電話を見つめる。

「……みんな、何か隠してる」

⸻

午後四時。

百合奈は、侑子が亡くなるまで勤務していた御堂家の後援会事務所を訪れた。

現在も使用されている事務所には、数人の職員がいた。

対応したのは、長年御堂家に仕えているという六十代の男性だった。

「沖田さんですか。懐かしいですね」

男性は応接用の椅子に腰を下ろした。

「どんな人でした?」

「本当にいい人でしたよ。仕事もできましたし、誰に対しても優しかった」

「悩んでいる様子は?」

男性は少し考えた。

「亡くなる少し前は、確かに元気がなかったような気がします」

「何かあったんですか」

「さあ……ただ、孝宏さんと何度か話し込んでいるのを見ました」

「夫婦喧嘩?」

「いや、そういう雰囲気ではなかったですね」

男性は首を振った。

「むしろ、沖田さんが孝宏さんを励ましているようでした」

「励ます?」

「ええ。孝宏さんが何かを悩んでいて、沖田さんが一生懸命話を聞いていたんです」

百合奈は身を乗り出した。

「何の話か聞こえました?」

「詳しくは。ただ……」

男性は眉間に皺を寄せた。

「一度だけ、こんな言葉を聞いたことがあります」

「何ですか」

「『ちゃんと向き合おう』って」

百合奈の目が細くなった。

「誰が言ったんです?」

「沖田さんです」

「孝宏さんに?」

「はい」

男性は懐かしそうに笑った。

「奥さんは本当に、孝宏さんのことを大切にしていましたから」

百合奈は手帳にその言葉を書き留めた。

ちゃんと向き合おう。

その言葉が、妙に引っかかった。

⸻

帰り際、百合奈は事務所の壁に貼られた古い写真に目を止めた。

数年前の後援会の集合写真だった。

中央には鄘造と孝宏。

その少し後ろに、侑子が立っていた。

「この写真、いつのもの?」

「八年ほど前でしょうか」

「侑子さん、笑ってますね」

「ええ。いつもあんな感じでした」

百合奈は写真をじっと見つめた。

「この人、誰?」

侑子の隣に立つ男性を指さした。

「御堂先生の当時の側近ですよ」

「今も働いてる?」

男性は首を横に振った。

「いえ。七年前に退職しました」

「七年前?」

「そうです。沖田さんが亡くなった少しあとだったと思います」

百合奈は男性の名前を尋ねた。

「黒崎正臣さんです」

百合奈は手帳に名前を書いた。

「退職理由は?」

「詳しくは知りません。突然辞められたので、みんな驚いていました」

「今どこにいるか分かります?」

「それが、まったく」

男性は困ったように笑った。

「御堂先生の側近だった方ですから、急に辞めるなんて珍しかったんですけどね」

百合奈は写真をもう一度見た。

七年前。

侑子の死。

そして、側近の突然の退職。

「……偶然にしては、重なるわね」

⸻

その夜。

村山恵は自宅のリビングにいた。

テーブルの上には、古い写真立てが置かれていた。

そこに写っているのは、制服姿の二人の少女だった。

一人は恵。

もう一人は、沖田侑子だった。

二人とも、屈託のない笑顔を浮かべている。

恵は写真を手に取った。

「……侑子」

その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。

写真の中の侑子は、いつまでも笑っていた。

恵は引き出しから一冊の古い手帳を取り出した。

ページの間には、折り畳まれた紙が挟まっていた。

そこには、見慣れた文字で短い文章が書かれていた。

『恵へ』

恵はその二文字を見つめた。

しかし、紙を開くことはしなかった。

「……もう少しだから」

恵は静かにつぶやいた。

「もう少しで、全部分かるから」

窓の外では、雨が降り始めていた。

⸻

同じ頃。

音村探偵事務所。

百合奈は机の上に、これまで集めた資料を並べていた。

御堂孝宏。

御堂鄘造。

沖田侑子。

村山恵。

そして、黒崎正臣。

「……七年前に、何があったの?」

百合奈は一枚の新聞記事を手に取った。

侑子の死亡記事だった。

記事の写真には、葬儀で深く頭を下げる孝宏の姿が写っていた。

その背後には鄘造が立っている。

孝宏は泣いていた。

一方、鄘造は無表情だった。

百合奈は写真を拡大した。

「……ん?」

鄘造のすぐ後ろ。

黒い喪服を着た一人の女性が写っていた。

顔は俯いており、はっきりとは分からない。

しかし、百合奈には気になることがあった。

その女性は、ほかの参列者とは少し離れた場所に立っていた。

まるで、誰とも関わりたくないかのように。

百合奈は記事の掲載元に連絡を取り、写真の原版が残っていないか問い合わせた。

しばらくして、担当者から返信が届いた。

当時の写真データが保存されているという。

送られてきた画像を開く。

百合奈は画面を拡大した。

そして、思わず声を漏らした。

「……あら」

そこに写っていた女性。

現在よりも若く、髪型も違っていた。

しかし、間違いなかった。

村山恵だった。

「五年前から秘書をしているだけの人が、七年前の葬儀に参列していた……」

百合奈は椅子の背もたれに体を預けた。

もちろん、葬儀に参列していたこと自体は不自然ではない。

しかし、恵は侑子について、前任の秘書だったとしか話していなかった。

それなのに、葬儀に参列していた。

しかも、あの写真の表情。

百合奈は画面を見つめた。

恵は泣いていた。

ただの知人を亡くしたというには、あまりにも深い悲しみが、その顔に刻まれていた。

「……村山恵」

百合奈は小さくつぶやいた。

「あなた、いったい何者なの?」

机の上には、七年前の死亡記事が置かれていた。

その隣には、現在の婚約発表の記事。

二枚の写真に写る同じ女性。

百合奈は二つを見比べながら、静かに目を細めた。

七年前に亡くなった女性。

五年前から秘書を務める女性。

そして、七年前の出来事を問いかける脅迫状。

別々に見えていた出来事が、少しずつ一本の線で結ばれ始めていた。

しかし、百合奈はまだ知らなかった。

その線の先に、もう一つの死が隠されていることを。


翌朝。

音村百合奈は、事務所の机に広げた二枚の写真を見比べていた。

一枚は、七年前の沖田侑子の葬儀。

もう一枚は、御堂孝宏と村山恵の婚約発表。

「……どう考えても、おかしい」

百合奈は葬儀の写真を指先で叩いた。

村山恵は、侑子について前任の秘書だったとしか話していなかった。

しかし、写真に写る彼女は、誰よりも悲しそうな顔をしていた。

「知り合いだったのは間違いない。でも、それだけじゃない気がするのよね」

百合奈はパソコンを開いた。

調べるのは、沖田侑子の高校時代。

卒業した学校は、都内の私立高校だった。

当時の学校広報誌を探していくと、文化祭を紹介した古い記事が見つかった。

そこには、三人の高校生が並んで写っていた。

御堂孝宏。

沖田侑子。

そして、田村恵。

「……田村?」

百合奈は画面を拡大した。

写真の端に立つ少女は、現在の村山恵によく似ていた。

「なるほどね」

百合奈は椅子にもたれかかった。

「旧姓が田村だったわけだ」

三人は同じ高校に通っていた。

それなのに、恵はその事実を一度も話していない。

百合奈は携帯電話を取り出した。

⸻

午後一時。

村山恵は、音村探偵事務所を訪れていた。

「今日はどういったご用件でしょうか」

「確認したいことがあるの」

百合奈は一枚の写真を机に置いた。

高校時代の集合写真だった。

恵の表情がわずかに変わった。

「懐かしいでしょう?」

「……これは」

「田村恵さん」

百合奈は真正面から恵を見た。

「あなたの旧姓よね」

恵はしばらく黙っていた。

やがて、小さく頷いた。

「はい」

「どうして隠していたの?」

「隠していたつもりはありません」

「じゃあ、どうして侑子さんと高校の同級生だったことを話さなかったの?」

恵は視線を落とした。

「……聞かれなかったからです」

「便利な答えね」

百合奈は写真を指さした。

「三人とも同級生だった。それなのに孝宏さんは、あなたが田村恵だと気づいていない」

「そうですね」

「なぜ?」

「高校時代、孝宏さんと私はほとんど話したことがありませんでした。卒業してからも長い間、会っていません」

恵は静かに続けた。

「名字も変わりましたし、髪型も雰囲気も変わりました。気づかなくても不思議ではありません」

「侑子さんとは?」

恵は顔を上げた。

「親友でした」

その言葉には、迷いがなかった。

「高校一年生のときに出会って、それからずっと一緒でした」

「仲が良かったのね」

「はい。何でも話せる、大切な友人でした」

恵の表情が少しだけ和らいだ。

「侑子は、本当に優しい人だったんです。自分が嫌な思いをしても、誰かの悪口を言うことはありませんでした」

「孝宏さんのことも?」

「……ええ」

百合奈は腕を組んだ。

「それで、親友が亡くなった二年後に、その夫の秘書になった」

恵は答えなかった。

「偶然?」

「……いいえ」

初めて、恵が明確に否定した。

「自分から希望しました」

「どうして?」

「侑子が亡くなった理由を、知りたかったからです」

百合奈は黙って続きを待った。

「自殺だと聞かされたとき、信じられませんでした。もちろん、人の心の中なんて、すべて分かるわけではありません。でも……」

恵は膝の上で両手を握りしめた。

「侑子は、何かを一人で抱え込んで死ぬような人ではなかった。少なくとも、私にはそう思えたんです」

「だから孝宏さんに近づいた?」

「はい」

「婚約までしたのも?」

恵の目が揺れた。

「……それは」

「答えたくないならいいわ」

百合奈は立ち上がった。

「でも、一つだけ覚えておいて」

「何でしょうか」

「真実を知りたいことと、誰かを傷つけることは別よ」

恵は驚いたように百合奈を見た。

「……どうして、そんなことを?」

「あなた、少し危なっかしい顔をしているから」

百合奈はそれ以上何も言わなかった。

⸻

その日の夕方。

百合奈は、御堂鄘造の元側近である黒崎正臣の居場所を突き止めた。

現在は都内から離れた町で、小さな印刷会社に勤めているという。

百合奈が訪ねると、黒崎は明らかに警戒した様子を見せた。

「御堂家のことなら、何も話すことはありません」

「まだ何も聞いてませんけど」

「帰ってください」

「沖田侑子さんのことです」

黒崎の顔色が変わった。

百合奈はその反応を見逃さなかった。

「七年前、侑子さんが亡くなった直後に退職されていますよね」

「……偶然です」

「本当に?」

「家庭の事情があったんです」

「じゃあ、どうして私が侑子さんの名前を出しただけで、そんな顔をするんですか」

黒崎は唇を噛んだ。

百合奈は声を落とした。

「私は、あなたを責めに来たわけじゃありません。何があったのか知りたいだけです」

長い沈黙が続いた。

やがて黒崎は、周囲を見回してから口を開いた。

「……あの人は、何も悪くなかった」

「侑子さん?」

黒崎は頷いた。

「本当に、何も悪くなかったんです」

「何があったんですか」

黒崎は答えようとした。

しかし、次の瞬間、携帯電話が鳴った。

画面を見た黒崎の表情が凍りついた。

「……すみません。今日は帰ってください」

「誰から?」

「関係ありません」

「御堂鄘造?」

黒崎は何も答えなかった。

ただ、その沈黙が百合奈には十分だった。

⸻

事務所へ戻った百合奈は、七年前の出来事を時系列に並べ始めた。

侑子の死。

黒崎の退職。

そして、御堂家が隠し続けている何か。

「……まだ足りない」

百合奈は過去の新聞記事を検索した。

侑子が亡くなる数週間前。

御堂家に関係する出来事がなかったか、記事を一つずつ確認していく。

政治活動。

後援会の会合。

地域行事。

その中で、一件の交通事故の記事が目に留まった。

『女子高校生、乗用車にはねられ死亡』

事故が起きたのは、七年前の春。

被害者は十八歳の女子高校生。

大学進学を目前に控えていた。

記事によると、夜間に横断歩道を渡っていたところ、乗用車にはねられたという。

運転手は現場から立ち去り、警察が捜査していた。

「……ひき逃げ?」

百合奈は記事を開いた。

事故現場は、当時の御堂家の邸宅から車で十五分ほどの場所だった。

さらに調べると、事故が起きた日は、侑子が亡くなる約三週間前だった。

「三週間……」

百合奈は事故の記事を印刷した。

偶然かもしれない。

しかし、気になる点があった。

事故の翌日、御堂孝宏は予定されていた政治関連の会合を欠席していた。

理由は体調不良。

その後も、数日間にわたり公の場に姿を見せていない。

百合奈は手帳を開いた。

『ちゃんと向き合おう』

後援会事務所の職員が聞いたという、侑子の言葉。

百合奈はその下に、交通事故の日付を書き込んだ。

「……そういうこと?」

⸻

翌日。

百合奈は再び黒崎を訪ねた。

今度は、交通事故の記事を持っていた。

「この事故、知っていますよね」

黒崎は記事を見た瞬間、目を伏せた。

「……帰ってください」

「御堂孝宏が運転していたんでしょう?」

黒崎の肩が震えた。

百合奈は続けた。

「事故の翌日から、孝宏さんは数日間、公の場に姿を見せていない。その後、奥さんが亡くなり、あなたが退職した」

「……やめてください」

「侑子さんは何を知っていたんですか」

黒崎は両手で顔を覆った。

「もう、七年も経ったんです」

「七年経てば、亡くなった人が帰ってくるんですか?」

黒崎は顔を上げた。

百合奈は静かに言った。

「十八歳の女の子が亡くなっているんです」

その言葉に、黒崎の目から涙がこぼれた。

「……孝宏さんは、自首するつもりだったんです」

百合奈は息を止めた。

「事故を起こしたあと、警察へ行くと言っていました。自分が悪いんだから、責任を取らなければいけないと」

「それを止めたのは?」

黒崎は震える声で答えた。

「……鄘造先生です」

百合奈は黙っていた。

「車の修理も、当日の行動記録も、すべて先生の指示で処理されました。私は、その手配を手伝いました」

「侑子さんは?」

「反対していました」

黒崎は涙を拭った。

「孝宏さんが自首したいと言っているのだから、そうさせるべきだと。罪を償ってから、また二人でやり直せばいいと……」

百合奈はゆっくりと頷いた。

「それで、侑子さんは亡くなった」

黒崎は答えなかった。

「自殺だったんですか?」

長い沈黙。

やがて黒崎は、小さく首を横に振った。

「……違います」

百合奈の表情が変わった。

「誰が殺したんですか」

黒崎は唇を震わせた。

「私は、直接見たわけではありません。でも、あの夜……」

そのとき、黒崎の携帯電話が再び鳴った。

黒崎は画面を見て、顔を青ざめさせた。

「……もう、話せません」

「黒崎さん」

「お願いします。帰ってください」

百合奈はしばらく黒崎を見つめていた。

そして、静かに立ち上がった。

「分かりました。でも、また来ます」

黒崎は何も答えなかった。

⸻

その夜。

御堂孝宏は、自宅の書斎にいた。

机の上には、七年前の交通事故に関する古い新聞記事が置かれていた。

孝宏はそれを見つめながら、両手で顔を覆っていた。

「……侑子」

小さく名前を呼ぶ。

返事はなかった。

当然だった。

七年前から、何度呼んでも返事はない。

そのとき、書斎の扉が開いた。

「孝宏さん」

恵だった。

「どうしたの?」

「少し、お話が」

孝宏は慌てて新聞記事を引き出しにしまった。

「何かな」

恵は静かに尋ねた。

「七年前のこと、まだ覚えていますか」

孝宏の表情が凍りついた。

「……何の話?」

「侑子さんのことです」

「どうして急に……」

「本当に、自殺だったと思いますか?」

孝宏は何も答えなかった。

恵は一歩近づいた。

「孝宏さん。私は、あなたに聞きたいことがあるんです」

「……恵さん」

「どうして、侑子さんは死ななければならなかったんですか?」

孝宏は顔を背けた。

「……知らない」

「本当に?」

「知らないんだ!」

孝宏は立ち上がった。

恵は動かなかった。

その目には、涙が浮かんでいた。

しかし、声は震えていなかった。

「……そうですか」

恵は小さく頷いた。

「分かりました」

そして、静かに書斎を出ていった。

扉が閉まる。

孝宏は椅子に崩れ落ちた。

「……ごめん」

誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

⸻

深夜。

村山恵は、自宅の寝室にいた。

机の上には、高校時代の写真が置かれている。

制服姿の恵と侑子。

二人は肩を寄せ合い、楽しそうに笑っていた。

恵は写真を手に取った。

「……侑子」

その声は、かすかに震えていた。

「やっと、ここまで来たよ」

恵は引き出しを開けた。

中には、一丁の拳銃が入っていた。

黒く冷たい金属。

恵はしばらく、それを見つめていた。

「……もう少しだから」

写真の中の侑子は、何も知らないまま笑っていた。

恵は拳銃を布で包み、バッグの奥へしまった。

そして、机の上に置かれた招待状を手に取った。

『御堂孝宏衆議院議員 政治資金パーティー』

開催日は、三日後。

恵は招待状を見つめながら、小さくつぶやいた。

「今度こそ、全部終わらせるから」

窓の外では、冷たい雨が降り続いていた。

⸻

同じ頃。

音村探偵事務所。

百合奈は黒崎の証言を整理していた。

七年前の交通死亡事故。

孝宏の自首を阻止した鄘造。

事故の隠蔽。

そして、その真相を知っていた侑子の死。

「……やっぱり、自殺じゃなかった」

百合奈は机に置かれた写真を見つめた。

そこには、笑顔の侑子が写っていた。

「あなたは、何を守ろうとしたの?」

百合奈は小さくつぶやいた。

そのとき、携帯電話に一通のメッセージが届いた。

差出人は、村山恵。

『音村先生。三日後の政治資金パーティーに、ぜひお越しください』

百合奈は画面を見つめた。

続けて、もう一通。

『きっと、先生にも知っていただきたいことがあります』

百合奈はしばらく考えた。

そして、静かに携帯電話を置いた。

「……そういうことね」

恵が自分に依頼した理由。

七年前の出来事を調べさせた理由。

そして、今になってパーティーへ招待した理由。

すべてが、一つの方向を向いているように思えた。

百合奈は立ち上がった。

「村山恵……」

窓の外では、雨が激しさを増していた。

「あなた、最初からそのつもりだったのね」

百合奈は机の引き出しからタロットカードを取り出した。

一枚だけ、表向きに置く。

そこに描かれていたのは、剣を持つ人物だった。

百合奈はカードを見つめ、静かにつぶやいた。

「……間に合うかしら」


午後六時三十分。

都内の高級ホテルでは、御堂孝宏の政治資金パーティーが開催されていた。

会場には、政財界の関係者をはじめ、報道各社の記者たちが集まっていた。

壇上には、大きな文字で『新しい時代へ』と書かれている。

その言葉を見上げながら、音村百合奈は小さくため息をついた。

「……新しい時代、ね」

百合奈は会場を見渡した。

招待客の数は二百人を超えている。

華やかな照明。

豪華な料理。

あちこちから聞こえる笑い声。

七年前に一人の少女が命を落としたことなど、誰も知らないような光景だった。

「音村先生」

背後から声をかけられた。

振り返ると、村山恵が立っていた。

落ち着いた黒いドレスに身を包み、いつもと変わらない穏やかな表情を浮かべている。

「お越しいただき、ありがとうございます」

「招待されたから来ただけよ」

「それでも、嬉しいです」

百合奈は恵の顔を見つめた。

「……今日は、何をするつもり?」

恵は少しだけ目を伏せた。

「先生には、最後まで見届けていただきたいんです」

「何を?」

「七年前に、何があったのかを」

百合奈は黙った。

恵は小さく頭を下げると、会場の奥へ歩いていった。

その背中を見送りながら、百合奈は携帯電話を取り出した。

画面には、刑事の蓮見圭吾の名前が表示されていた。

「……念のため、ね」

⸻

午後七時。

御堂孝宏が壇上に立った。

「本日は、お忙しい中お集まりいただき、誠にありがとうございます」

会場から拍手が起こる。

最前列には、父親の御堂鄘造が座っていた。

孝宏は用意された原稿に目を落とした。

「私は、国民の皆様が安心して暮らせる社会を実現するため……」

そのときだった。

「孝宏さん」

会場の後方から、女性の声が響いた。

孝宏が顔を上げる。

村山恵だった。

「恵さん?」

恵はゆっくりと壇上へ近づいた。

その表情には、いつもの笑顔がなかった。

「少し、お話があります」

「今は挨拶の途中だから……」

「七年前のことです」

孝宏の顔色が変わった。

会場がざわつき始める。

「恵さん、何を……」

「もう、隠さなくていいんです」

恵はバッグの中に手を入れた。

次の瞬間。

黒い拳銃が、孝宏へ向けられていた。

悲鳴が上がった。

「動かないでください!」

恵の声が会場に響く。

警備員が駆け寄ろうとする。

「近づかないで!」

恵は孝宏の背後に回り、拳銃を向けたまま腕をつかんだ。

「誰も近づかないでください。私は、この人に聞きたいことがあるだけです」

会場は一瞬にして混乱した。

招待客たちが出口へ殺到する。

しかし、報道陣の一部はその場に残り、カメラを向け始めた。

恵はそれを確認すると、静かに口を開いた。

「御堂孝宏さん。七年前、あなたは何をしましたか?」

「……恵さん」

「答えてください」

孝宏は震えていた。

「お願いだ。こんなことはやめてくれ」

「七年前、あなたは車で人をはねましたね」

会場が静まり返った。

記者たちが一斉に顔を上げる。

「何を言っている!」

鄘造が立ち上がった。

「村山君! 今すぐ銃を下ろしなさい!」

恵は鄘造を見た。

「御堂先生。あなたにも、あとでお話を伺います」

「馬鹿なことをするな!」

「馬鹿なことをしたのは、誰ですか?」

恵の声が震えた。

「七年前、十八歳の女の子が亡くなりました。大学進学が決まったばかりだったそうです」

孝宏は目を閉じた。

「その子をはねたのは、あなたですね」

長い沈黙。

やがて孝宏は、小さく頷いた。

「……そうだ」

会場にどよめきが広がった。

「僕が……運転していた」

記者たちのカメラが一斉に孝宏へ向けられた。

「どうして警察に行かなかったんですか?」

恵が尋ねる。

「行こうとしたんだ……」

孝宏は涙を流し始めた。

「本当は、すぐに自首するつもりだった。でも……」

「でも?」

「父が……止めた」

鄘造が怒鳴った。

「孝宏!」

孝宏は肩を震わせた。

「父さんが、全部何とかすると言ったんだ。僕は……怖くて……」

恵は拳銃を握りしめた。

「それで、侑子は?」

孝宏の表情が凍りついた。

「……え?」

「沖田侑子です」

恵の目から涙がこぼれた。

「あなたの奥さんだった人です」

「どうして、侑子のことを……」

「答えてください」

恵は声を張り上げた。

「侑子は、どうして死んだんですか!」

⸻

会場の後方で、百合奈は静かに様子を見つめていた。

周囲には警備員が集まり始めている。

しかし、恵が拳銃を向けているため、誰も近づけなかった。

百合奈は一歩前へ出た。

「村山さん」

恵が振り返る。

「音村先生……」

「もう十分でしょう」

「まだです」

「何が足りないの?」

恵は涙を拭った。

「侑子が死んだ理由です」

百合奈は静かに頷いた。

「知っているわ」

恵の目が見開かれた。

「……本当ですか?」

「ええ」

百合奈は孝宏を見た。

「御堂孝宏さん。あなたは、侑子さんが自殺したと思っていますか?」

孝宏は答えなかった。

「それとも、違うと知っていた?」

「……やめてくれ」

「答えてください」

百合奈の声が鋭くなった。

孝宏は顔を覆った。

「……知っていた」

恵の表情が崩れた。

「……何を?」

「侑子が……殺されたことを」

会場に衝撃が走った。

「誰に?」

恵の声は、かすれていた。

孝宏は何も言わなかった。

ただ、父親の方へ視線を向けた。

鄘造は無表情だった。

百合奈は、その視線を見逃さなかった。

⸻

「……どうして」

恵がつぶやいた。

「どうして、知っていたのに何もしなかったんですか?」

孝宏は泣きながら首を振った。

「僕には……どうすることもできなかった」

「できなかった?」

恵は笑った。

それは、悲しい笑いだった。

「侑子は、あなたの奥さんだったんですよ」

「分かってる……」

「分かってない!」

恵の叫び声が響いた。

「侑子は、あなたのことを最後まで信じていた!」

孝宏は顔を上げた。

「……恵さん?」

「あなたが自首したいなら、そうすればいいって。帰ってくるまで待っているって……」

恵は涙を流しながら続けた。

「侑子は、そういう人だったんです」

孝宏は呆然としていた。

「どうして……そんなことを知っているんだ」

恵はゆっくりと微笑んだ。

「覚えていませんか?」

「……何を?」

「高校二年生の文化祭。あなたは実行委員で、侑子は受付を担当していました」

孝宏の目が揺れた。

「……高校?」

「私も、同じクラスだったんです」

恵は静かに言った。

「田村恵」

その名前を聞いた瞬間、孝宏の表情が変わった。

「……田村?」

「そうです」

恵は涙を拭った。

「侑子の親友だった、田村恵です」

孝宏は言葉を失った。

「……君が?」

「ずっと、気づかなかったんですね」

恵は小さく笑った。

「私は、あなたのことを一度も忘れなかったのに」

百合奈は黙っていた。

恵は続けた。

「高校生の頃、私はあなたが好きでした」

会場が静まり返った。

「初恋だったんです」

孝宏は何も言えなかった。

「でも、あなたが好きだったのは侑子でした。侑子も、あなたのことが好きだった」

恵は遠くを見るような目をした。

「二人が付き合い始めたとき、正直、少しだけ悲しかった。でも、それ以上に嬉しかったんです」

「……恵」

「侑子が幸せそうだったから」

恵の声が震えた。

「私は、侑子が幸せなら、それでよかった」

拳銃を握る手が震え始めた。

「なのに……」

恵は孝宏を見た。

「あなたたちは、その幸せを奪った」

⸻

「村山さん」

百合奈が静かに呼びかけた。

「もう、銃を下ろして」

「……嫌です」

「あなたがここで撃っても、侑子さんは帰ってこない」

「分かっています!」

恵は叫んだ。

「そんなこと、分かっています!」

涙が頬を伝った。

「でも、七年間……ずっと考えてきたんです」

百合奈は黙っていた。

「どうして侑子が死ななければならなかったのか。どうして、あんなに優しい人が……」

恵は拳銃を孝宏へ向け直した。

「私は、侑子の代わりに、この人を許すことなんてできません」

孝宏は目を閉じた。

「……撃ってくれ」

その言葉に、恵の動きが止まった。

「僕は……生きている資格なんてない」

「黙って!」

恵の声が響いた。

「そんなことを言えば、許されると思っているんですか!」

百合奈は一歩近づいた。

「恵さん」

初めて、百合奈は彼女を名前で呼んだ。

「侑子さんの日記を見つけたの」

恵が顔を上げた。

「……日記?」

「ええ。侑子さんが亡くなる前に書いていたものよ」

百合奈はバッグから一冊の古いノートを取り出した。

恵は息を呑んだ。

「……それは」

「侑子さんが大切にしていたもの」

百合奈はページを開いた。

「読んでもいい?」

恵は答えなかった。

百合奈は静かに読み始めた。

「今日は久しぶりに恵と会った。相変わらず笑いっぱなし。私たちいくつだろう(笑)」

恵の表情が変わった。

「なんか高校に戻ったみたい。その時から恵はいつも私の近くにいる。一緒にいてくれる」

百合奈はゆっくりと言葉を続けた。

「信じられないくらい気が合う。気が合いすぎて初恋の人も被っちゃったね。今では旦那だけど(笑)」

恵の目から、大粒の涙がこぼれた。

「……侑子」

百合奈は最後の一文を読んだ。

「恵がいて孝宏がいる。私は幸せ者だな」

静寂が訪れた。

誰も、何も言わなかった。

恵は拳銃を握ったまま、泣いていた。

「……馬鹿だよ」

小さな声だった。

「侑子は、本当に馬鹿だよ……」

恵は泣きながら笑った。

「自分がどれだけ大変でも、いつも人のことばっかり……」

百合奈は日記を閉じた。

「侑子さんは、あなたのことを大切に思っていた」

恵は頷いた。

「……知ってます」

「あなたが今、何をしようとしているか知ったら、どう思うかしら」

恵は何も答えなかった。

百合奈は続けた。

「侑子さんが大切にしていたのは、孝宏さんだけじゃない。あなたもよ」

恵の手が震えた。

「……私は」

「あなたまで、自分の人生を壊す必要はない」

恵はゆっくりと目を閉じた。

高校時代の記憶が、脳裏によみがえる。

教室の窓際。

放課後の廊下。

帰り道に寄った小さな喫茶店。

いつも隣には、侑子がいた。

『恵、また明日ね!』

あの日と同じ笑顔。

恵は小さくつぶやいた。

「……ごめんね、侑子」

そして、拳銃を下ろした。

その場に崩れ落ちる。

「……会いたいよ」

恵は両手で顔を覆った。

「もう一回だけでいいから……会いたいよ……」

百合奈は何も言わず、恵のそばにしゃがんだ。

しばらくして、警察官たちが近づいてきた。

恵は抵抗しなかった。

⸻

午後八時十五分。

会場の混乱が少しずつ収まり始めた頃、蓮見圭吾が到着した。

「百合奈!」

「遅かったわね」

「お前が急に連絡してくるからだろうが」

蓮見は会場を見渡した。

「……派手にやったな」

「私じゃないわよ」

蓮見は恵が連行されていく姿を見た。

「彼女が犯人か?」

「脅迫状のことなら、まだ調べる必要がある。でも、今日の人質事件については彼女がやった」

「それで、七年前の事件は?」

百合奈は孝宏を見た。

孝宏は椅子に座り、呆然としていた。

その隣には鄘造が立っている。

「……そろそろ、終わらせましょうか」

百合奈は二人の前へ歩いていった。

「御堂鄘造さん」

鄘造が振り返る。

「何だね」

「七年前、沖田侑子さんが亡くなった事件について、お話があります」

鄘造は眉をひそめた。

「その件なら、すでに警察が自殺と判断している」

「ええ。でも、それは間違いです」

会場に残っていた記者たちが、一斉に百合奈へ視線を向けた。

百合奈は静かに続けた。

「侑子さんは、自殺なんかしていません」

孝宏が顔を上げた。

鄘造の表情は変わらなかった。

「……何が言いたい」

百合奈は真正面から鄘造を見た。

「あなたが殺させたんでしょう?」

一瞬、時間が止まったようだった。

「沖田侑子さんを殺害するよう命じたのは……」

百合奈は言葉を区切った。

「御堂鄘造。あなたです」

鄘造は、ゆっくりと口元を歪めた。

「……面白いことを言うお嬢さんだ」

百合奈は微笑まなかった。

「面白い話じゃないわ」

そして、静かに告げた。

「七年前の真実を、全部話してもらいます」


「証拠はあるのかね」

御堂鄘造は、落ち着いた声で尋ねた。

つい先ほどまで拳銃を持った女性が暴れていた会場とは思えないほど、その態度は堂々としていた。

「私が沖田侑子を殺害させたという証拠だよ」

音村百合奈は、鄘造を見つめた。

「ありますよ」

その言葉に、鄘造の眉がわずかに動いた。

「七年前、あなたの側近だった黒崎正臣さんが突然退職していますね」

「それがどうした」

「侑子さんが亡くなった直後です」

「偶然だろう」

「そうかもしれませんね。でも、黒崎さんは私に話してくれました。七年前の交通事故を隠蔽したのは、あなたの指示だったと」

鄘造は鼻で笑った。

「退職した人間の証言など、いくらでも作れる」

「そうですね。だから、ほかにも調べました」

百合奈はバッグから数枚の資料を取り出した。

「黒崎さんは、当時の業務記録を保管していたんです」

蓮見圭吾が隣に立った。

「本人から警察にも連絡があった。今、事情を聞いている」

鄘造の表情がわずかに強張った。

百合奈は続けた。

「侑子さんが亡くなった夜、黒崎さんはあなたの指示で二人の男性を邸宅へ向かわせています」

「知らんな」

「そのうちの一人は、当時あなたの警護を担当していた人物です。黒崎さんの記録には、二人の名前と車両番号、それから支払いの指示が残されていました」

蓮見が口を開いた。

「当時の警護担当者の一人は、すでに事情聴取に応じている。侑子さんの死亡現場に入ったことを認めた」

会場にざわめきが広がった。

「……馬鹿な」

鄘造がつぶやいた。

「七年前、侑子さんは孝宏さんと一緒に警察へ行こうとしていた」

百合奈は静かに言った。

「事故を起こした責任を取らせるために」

孝宏は俯いた。

「でも、あなたにとっては都合が悪かった。息子の政治生命だけじゃない。事故の隠蔽が発覚すれば、あなた自身の立場も危うくなる」

「推測にすぎん」

「では、なぜ侑子さんが亡くなった夜、あなたの指示を受けた人間が邸宅にいたんですか?」

鄘造は答えなかった。

「なぜ、侑子さんの死後、その人間たちに金銭が支払われたんですか?」

「……」

「そして、なぜ黒崎さんに、すべての記録を処分するよう命じたんですか?」

長い沈黙が続いた。

やがて鄘造は、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

「……あの女は、何も分かっていなかった」

孝宏が顔を上げた。

「父さん……」

「政治というものが、どれほど多くの人間の人生を背負っているのか。あの女には理解できなかった」

鄘造は百合奈を見た。

「孝宏が自首すれば、すべてが終わっていた。支援者も、後援会も、長年築き上げてきたものもな」

「だから殺したんですか?」

「守るためだ」

鄘造は低い声で答えた。

「御堂家を守るために必要だった」

孝宏は立ち上がった。

「……父さん」

「お前のためでもあったんだぞ」

「僕は……そんなこと、頼んでない」

鄘造の目が鋭くなった。

「何だと?」

「僕は、警察に行きたかったんだ」

孝宏の声が震えた。

「侑子も、一緒に行こうって言ってくれた。帰ってくるまで待ってるって……」

「甘いことを言うな!」

鄘造が怒鳴った。

「お前が今、国会議員になれたのは誰のおかげだ!」

孝宏は父親を見つめた。

そして、小さく首を振った。

「……もう、いいよ」

「孝宏?」

「僕は、父さんが怖かった」

孝宏の目から涙がこぼれた。

「ずっと、怖かったんだ。子どもの頃から、何をするにも父さんの顔色を見て……」

鄘造は何も言わなかった。

「でも、侑子は違った。僕が間違っていたら、間違っているって言ってくれた」

孝宏は泣きながら続けた。

「僕が弱い人間だって分かっていても、そばにいてくれたんだ」

百合奈は静かに二人を見つめていた。

「……侑子を殺したのは父さんだ」

孝宏は言った。

「でも、僕も同じだ」

鄘造が顔を上げた。

「僕は、侑子が殺された理由を知っていた。それなのに、何もしなかった」

孝宏は両手で顔を覆った。

「僕が……僕が、侑子を守れなかったんだ……」

⸻

午後八時四十五分。

御堂鄘造は、沖田侑子殺害の指示に関する容疑で警察に身柄を確保された。

孝宏も、七年前の交通死亡事故とその隠蔽について事情を聴かれることになった。

蓮見は部下に指示を出しながら、百合奈のもとへ歩いてきた。

「……ようやく終わったな」

「まだよ」

「何?」

「七年前の事故の被害者について、詳しく調べてほしい」

蓮見は眉をひそめた。

「十八歳の女子高校生だったんだろう?」

「それだけじゃないでしょう」

百合奈は会場の出口を見た。

「誰かが亡くなったとき、悲しむ人は必ずいるの」

蓮見はしばらく黙っていた。

「……分かった」

そのとき、警察官に付き添われた村山恵が、百合奈の前で足を止めた。

「音村先生」

「何?」

「ありがとうございました」

百合奈は恵を見た。

「お礼を言われるようなことはしてないわ」

「いいえ」

恵は小さく首を振った。

「先生がいなかったら、私は……」

言葉が続かなかった。

百合奈は静かに言った。

「あなたが自分で銃を下ろしたのよ」

恵の目に涙が浮かんだ。

「……侑子は、最後まで私の親友でした」

「そうね」

「私も、そうでいられたでしょうか」

百合奈は少し考えた。

「それは、これから決めることじゃない?」

恵は驚いたように顔を上げた。

「あなたがしたことは消えない。でも、これからどう生きるかまで決まったわけじゃないでしょう」

恵は何度も頷いた。

「……はい」

警察官に促され、恵は歩き始めた。

その背中を見送りながら、百合奈は小さく息を吐いた。

「……本当に、不器用な人たち」

⸻

午後九時十分。

ホテルの正面玄関には、大勢の報道陣が集まっていた。

御堂鄘造と孝宏が警察官に付き添われ、建物から出てきた。

一斉にフラッシュが焚かれる。

「御堂先生! 七年前の事件について説明してください!」

「事故を隠蔽したのは事実ですか!」

「奥様の殺害を知っていたんですか!」

記者たちの質問が飛び交う。

鄘造は一切答えなかった。

一方、孝宏は俯いたまま歩いていた。

その姿を、少し離れた場所から百合奈と蓮見が見守っていた。

「……あの人、これからどうなるのかしら」

百合奈がつぶやいた。

「少なくとも、政治家としては終わりだろうな」

蓮見が答えた。

「そういうことじゃないんだけど」

「……何?」

百合奈は孝宏を見つめた。

「七年前に責任を取っていれば、違う人生があったのかもしれないってこと」

蓮見は答えなかった。

孝宏が警察車両の前で立ち止まった。

一度だけ、夜空を見上げる。

雲の隙間から、小さな月が見えていた。

「……侑子」

孝宏は小さく名前を呼んだ。

「ごめん……」

そのときだった。

「御堂孝宏!」

人混みの中から、若い男の声が響いた。

孝宏が振り返る。

一人の青年が、報道陣の間をすり抜けるように走ってきた。

年齢は二十五歳ほど。

黒い上着を着た、どこにでもいそうな青年だった。

「おい、止まれ!」

警察官が叫ぶ。

しかし、青年は止まらなかった。

次の瞬間。

青年の手が、孝宏の腹部へ伸びた。

「……え?」

孝宏の口から、かすれた声が漏れた。

青年の手には、刃物が握られていた。

その刃が、孝宏の腹部に突き刺さっていた。

「孝宏!」

鄘造が叫んだ。

周囲の警察官が一斉に青年を取り押さえる。

悲鳴が上がった。

報道陣が後ずさる。

孝宏はゆっくりと膝をついた。

白いシャツが、赤く染まっていく。

「救急車! 早く!」

蓮見が駆け寄った。

百合奈も孝宏のそばにしゃがみ込んだ。

「御堂さん! しっかりして!」

孝宏は虚ろな目で百合奈を見た。

「……音村、さん」

「喋らないで!」

孝宏はかすかに笑った。

「……僕は……」

百合奈はその手を握った。

「今は何も言わなくていい!」

孝宏の唇が震えた。

「……侑子に……会える、かな……」

百合奈は答えなかった。

答えられなかった。

孝宏の目から、一筋の涙が流れた。

「……ごめん、なさい……」

その声を最後に、孝宏は意識を失った。

⸻

午後十時二十六分。

御堂孝宏の死亡が確認された。

死因は、腹部刺創による大量出血だった。

事件を起こした青年は、その場で逮捕されていた。

取り調べ室。

青年は椅子に座り、俯いていた。

向かいには蓮見が座っている。

「名前は?」

青年は答えた。

蓮見は調書に記入した。

「どうして御堂孝宏を刺した?」

青年はしばらく黙っていた。

やがて、小さく口を開いた。

「……七年前です」

蓮見の手が止まった。

「七年前?」

「僕の彼女が、車にはねられて死にました」

蓮見は顔を上げた。

「……君は」

青年は頷いた。

「御堂孝宏が殺した女の子の、恋人です」

取り調べ室に沈黙が落ちた。

「ずっと……待っていたんです」

青年は静かに続けた。

「あいつが、自分のしたことを認める日を」

「だから殺したのか」

「……はい」

「人を殺せば、君も罪を償わなければならない」

「分かっています」

青年は顔を上げた。

その目には、涙が浮かんでいた。

「でも、僕の人生は……七年前に終わっていたんです」

⸻

翌日。

音村探偵事務所。

百合奈は、蓮見から受け取った資料を読んでいた。

七年前の交通事故。

被害者は、当時十八歳の女子高校生。

高校三年生だった。

大学への進学が決まり、卒業式を目前に控えていた。

事故が起きたのは、恋人との待ち合わせに向かう途中だったという。

百合奈は資料をめくった。

そこには、被害者の遺族から提出された写真があった。

制服姿の男女が、桜の木の下で並んでいる。

二人とも、楽しそうに笑っていた。

「……この子たち」

百合奈は写真を見つめた。

蓮見が静かに説明した。

「二人は高校一年生から付き合っていたそうだ」

「……そう」

「同じ大学ではなかったが、どちらも合格していた。春からは少し離れた場所で暮らすことになっていたらしい」

百合奈は写真から目を離さなかった。

「遠距離恋愛になるって、笑っていたそうだ」

蓮見は続けた。

「大学を卒業したら、一緒に暮らそうって話していたらしい」

百合奈は何も言わなかった。

「……初恋だったそうだ」

その言葉に、百合奈が顔を上げた。

「初恋?」

「ああ。二人とも、お互いが初めて好きになった相手だった」

百合奈は再び写真を見た。

満開の桜。

笑顔の少女。

その隣で、少し照れくさそうに笑う少年。

二人の未来は、まだ始まったばかりだった。

「事故のあと、青年は大学に進学した。でも、ほとんど通えなくなって退学したそうだ」

蓮見は資料を閉じた。

「それから七年間、彼女の命を奪った運転手を探し続けていた」

「……そう」

「御堂孝宏の名前を知ったのは、最近だったらしい」

百合奈は窓の外を見た。

「それで、復讐したのね」

「ああ」

蓮見は小さく息を吐いた。

「でも、あいつが殺人を犯したことも事実だ」

「分かってる」

百合奈は静かに答えた。

「分かってるわ」

しばらく沈黙が続いた。

やがて百合奈は、机の上に置かれた侑子の日記を手に取った。

『恵がいて孝宏がいる。私は幸せ者だな』

あの一文が、再び目に入った。

「……ねえ、蓮見さん」

「何だ?」

「初恋って、何なんでしょうね」

蓮見は首を傾げた。

「急にどうした」

「だって、そうでしょう」

百合奈は日記を閉じた。

「恵さんは孝宏さんが好きだった。でも、結ばれなかった」

蓮見は黙って聞いていた。

「侑子さんは孝宏さんと結婚した。でも、幸せは続かなかった」

百合奈は写真を見つめた。

「そして、この二人は……」

言葉が続かなかった。

蓮見は静かに言った。

「……難しいな」

百合奈は小さく笑った。

「刑事らしくない答えね」

「探偵らしくない質問をするからだ」

二人はしばらく黙っていた。

窓の外では、秋の風が街路樹を揺らしていた。

百合奈は写真をもう一度見た。

七年前の春。

桜の下で笑う二人。

あの日、少女はきっと、未来を疑っていなかった。

少年も同じだったはずだ。

大学へ進学して、たくさんの思い出を作って。

いつか大人になって。

何年か経ったあと、あの頃は楽しかったねと笑い合う。

そんな未来を、当たり前のように信じていた。

しかし、その未来は訪れなかった。

残された少年は、七年間、恋人を失った日の中で生き続けた。

そして、復讐を果たした瞬間、自分自身の未来も失った。

百合奈は写真を机に置いた。

「……花ってさ」

「ん?」

「咲いたら、必ず実がなるわけじゃないのよね」

蓮見は何も言わなかった。

百合奈は静かに続けた。

「でも、咲いたことまで、なかったことにはならない」

机の上には、二枚の写真が並んでいた。

一枚は、高校時代の恵と侑子。

もう一枚は、桜の下で笑う恋人たち。

どちらも、幸せそうだった。

どちらも、未来を信じていた。

百合奈はそっと目を閉じた。

「……誰も、幸せになれなかったのね」

その言葉に、蓮見は答えなかった。

答えられるはずもなかった。

窓の外を、一枚の枯れ葉が舞い落ちていく。

百合奈はその行方を、静かに見つめていた。

咲いて、実らず。

それでも、確かに咲いていた。

---「咲いて、実らず」完。

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